 おのが寝る 部屋の上にも 煙草の葉 青青とつり 安寝すらしも
南矢名の農家に生まれた前田夕暮の歌である。当時、葉たばこの乾燥に木枯らしという方法があった。これは、青いたばこの茎を、葉をつけたまま畑から刈り取って来て梁(はり)に吊るして枯らす方法。屋根の下一面に青いたばこの木を逆さに吊るした光景を夕暮は「たばこ畑をさながら持って来ておいたようである」と散文集「朝、青く描く」で述懐する。秦野のどこにでもあった光景である。
秦野は古くからたばこの産地として知られ秦野と言えばたばこ、たばこと言えば秦野の名が浮かぶほど秦野はたばことともに歩んできた。
これといった産業のなかった秦野もことたばこに関しては数少ない先進地で共進会、博覧会などで入賞する人も多く日本各地から勉強にやって来たり指導者を派遣したりするなど取り引き、加工だけでなく技術の中心地でもあった。
「波多野たばこ」は江戸時代の初期に肥前(佐賀県)から修験者が種子を持ち帰ったことに始まるといわれるが、この話は全国の5、6ヵ所で言い伝えられる“弘法の伝説”のようなものらしい。しかし明暦(1650年代)のころには商品になっている。
宝永4年(1707年)11月23日富士山が噴火した。一瞬にして山野は荒廃した。作物の栽培は不可能に近かった。不運な天災であったがこういう土地にたばこが適した。
荒廃した農村の救済にたばこが奨励された。その後、秦野葉が佳品であると記録に表れるのが噴火後130年後の「新編相模国風土記稿」である。
以来、鹿児島、水戸地方とともに銘葉産地となり名声は天下に知られるようになった。 品質では国府(鹿児島)の葉がよかった。しかし、秦野葉は味が軽かった。吉原の遊女が一日中吸っていてものどを痛めないという軽さであった。国府葉に秦野葉が加えられ口当たりが良くなった。
今は紙巻きたばこが主流であるが、かつての刻みたばこの多くが秦野で作られた。「さつき」「あやめ」「はぎ」「もみじ」「白梅」「福寿草」などお年寄りになじみ深い刻みたばこは明治の始めまで職人が包丁片手にたばこ葉を丸めて刻んでいた。
この古来の銘葉、秦野葉も時代の流れと需要の変化から昭和に入りこの地方に導入されたシガレット用の黄色種に主役を譲って減少、昭和49年、長い歴史の幕を閉じた。
黄色種の普及で戦後再び活況を呈したこのたばこも昭和30年に入ると工業化、都市化の大きなうねりをかぶって衰退、高度経済成長は古いこのたばこの産地に壊滅的変貌をもたらした。そして昭和59年その歴史の火が消えた。
だが、恒例の「たばこ祭」は毎年華やかに行われている。今日の秦野があるのはたばこのおかげとたばこに感謝を捧げ、たばこ耕作者を慰安するため昭和23年に始められたこの祭、毎年30万人近くの見物客が出て県内を代表する行事の一つに数えられている。 |